【掌中の珠 最終章
10】
馬車の中はふかふかだった。
後ろ半分、窓があるところに大きな寝台が作り付けであり、分厚いクッションがいくつもおいてある。花の体を気遣って孟徳が用意してくれたのだろう。
花の後に続いて孟徳が乗ってくるかと思っていたら、入口で止まったままだ。
「孟徳さん?」
「俺も乗ってもいい?」
「……はい」
これは孟徳の馬車だし、これ以外の馬車は置いていないし変なことを聞く、と花が首をかしげていると、乗り込みながら孟徳が苦笑いをした。
「いや、都を立つときに君が俺に会いたくないって元譲から言われていたから」
そういいながら花に寝台に横たわるよう手で指示し、自分は反対側の作り付けの長椅子に座った。花は気まずくて赤くなる。
「あの時は……会いたくなくて」
「うん。君の希望はできる限りかなえるよって俺、前に言ったでしょ。だからいいんだよ、それが俺の排除でもね」
孟徳はそういうと、窓から手を振って馬車を進めるよう合図した。
花が窓から外を見ると、玄徳や芙蓉が門の前に立って見送ってくれていた。
「いつでも戻ってきていいからねー!」
芙蓉の声が聞こえて花は泣きそうになったが頑張って笑って手を振る。
きっとまた会える。
もう会えないかもって思ってもまた会えるって信じてたらまた会えるよね。
花は芙蓉や玄徳たちと過ごした2か月余りを懐かしく思い出した。みんなが会いに来てくれてワイワイと過ごした懐かしい日々。優しい笑顔と暖かい手。でも花が選んだのは孟徳だ。一生傍に居たいと、傍に居ようと決めた。
二人が見えなくって、花は寝台へ体を戻した。向かい側で孟徳が花を見ている。
なんか……気まずいな。
家庭教師の先生やあの小さな兄弟たちとの別れはとてもつらかったし、孟徳を恨んだこともあるけれど、元来聡明な花は今となればあれが孟徳にできる最善だとわかっていた。花自身ももし違う行動をしたらあの悲惨な結末は避けれたのではと何度も考えたが、無理だろうと結論をだした。
花のせいではないのだ。
孟徳のせいでもない。
権力と様々な考え方を持つ人が集まる状況で起こるべくして起こったのだし花が巻き込まれるのもあり得ることだった。花が巻き込まれたのはあれが最初ではなかったしあれが最後でもないだろう。
そんな状況で、人の命を簡単に左右できる丞相孟徳のもとで花がどう生きて行けばいいのかについて答えはまだ具体的にはでていないけれど。
でも分かったことがある。どうすればいいのか。自分はどうしたいのか。
「……君はついてこないかと思ってたよ」
しばらく進んだ後、孟徳が外を眺めながらそう言った。なんのことか花もわかった。
「玄徳さんのところに残るってことですか?」
「うん」
そして孟徳はまっすぐに花の目を見る。「どうして俺と一緒に来たの?」
孟徳の目は花の心の底までのぞき込むようで、きちんと考えて、深いところまで考えて言わなくてはと花は感じた。孟徳が好きだから、だけでは納得できないだろうし花もそれだけではない。だって好きでも傍に居れない状態ってあるし、この遠征に来る直前の都での花がまさにそれだったのだから。
「どこにも行かないで孟徳さんのそばにいるって決めて……それが揺らいだ時もあったけど、やっぱりそばにいたいって思ったんです」
そう、あの応接室で孟徳へ手から視線をあげて彼の目を見つめた時。
孟徳の瞳の奥で揺らいだのは恐怖だった。
「孟徳さんを裏切らないっていう人が一人は絶対いるって思ってほしくて」
私を信じてほしくて。
孟徳が決して誰にも……花にも見せることのなかった恐怖。
「言わないでいることとか……あと、たまに嘘を言っちゃうこともあるかもしれないけど、私は、私だけは孟徳さんのそばを、私からは絶対離れないでいようってあの時思ったんです」
考え考えつっかえながらも自分の心の奥深くを探りながら言葉を紡ぐ花を、孟徳は向かいの席に座りじっと見つめていた。
花は下を向いて自分の指を見ながら静かに話している。
ガタガタと揺れる馬車の音だけが二人を包んでいた。
孟徳はずっと感じていた花のつかみどころのなさについて考えていた。いつかを自分のもとを去っていってしまうのではないかという不安。予感。そして玄徳と彼女の絆についても。
あの時彼女が俺の手を取らず玄徳といることを選んだとしたら……
そしたら自分は裏切りだと思っただろうか?
孟徳だって頭では彼女にとっては自分のそばにいることは過酷だと理解していたし彼女が経験したあの許都での事件で彼女が孟徳のそばに居られないと思ったとしてもしょうがないと考えてもいた。いや、もっというと孟徳自身にだって迷いがあった。元譲から言われるまでもなく彼女にとっては玄徳のそばの方がいいのではないかと。たとえ自分の排除だろうと彼女の望みを叶えて玄徳に彼女を渡すことこそが彼女のためなのではないかと。
しかし実際彼女が玄徳を選んだとしたら……
裏切りだと思っただろうな
孟徳は自嘲した。きっと、またかと思っただろう。裏切りには慣れていると傷ついた心をさらに固く閉ざして彼女と離れる自分が、孟徳には想像できた。
それとも、玄徳のもとに残ると言う花を許さずに連れ去ったかもしれない。彼女無での人生に耐えられなくて無理やり閉じ込めて。そしたら孟徳の好きな花は花ではなくなり、花の抜け殻を生涯大事に囲って過ごしたかもしれない。まあそうなったらまず玄徳たちと戦になるだろうが。
失うくらいならそれでも構わないと思う自分も、孟徳は簡単に想像できた。実際あの時どうしようかとは考えないようにしていたのだ。考えがまとまらない中、花に会ったらわかるかと思って。花の選択を知りたいと思って。
孟徳の胸に飛び込んでくる花は、全く想像の範疇外だった。驚きとともに腹から湧き上がるような歓喜を今でもはっきりと覚えている。全身が震え孟徳にしては珍しく周囲が見えなくなった。腕の中の花しか感じられなくなったのだ。
孟徳の想像していたルートは、花を傍においてもおかなくても幸せではなかった。花が実際に起こしてくれた迷いのない行動こそが孟徳の想像を飛び越え世界を明るくしてくれたのだ。
そして花はそんな自分を理解していたのかと孟徳は目の前の女性を見つめる。理解した上で、信頼してほしいと。
信頼に足る行動をとるからと。
裏切られたと思わずに済むルートは、花が自分から喜んで孟徳の胸に飛び込んでくれるルートしかないが、孟徳はそれはないと頭から決めつけていた。
彼女を利用したわけではないが、リスクのある教師を彼女につけた。親しい友達が花にできるような環境は作らず、極力自分の掌の中にとどめようとしていた。
生きづらいだろうとわかっていながら、孟徳はそうしたのに。
「……そっちにいってもいい?」
馬車に作った寝台は広くて、二人で横になってもまだかなり広い。壁によせてクッションの山をつくり、花はそれに寄りかかっているので寝台は半分以上あいていた。
花がうなずくのを確認して、孟徳は花と反対側に座った。
「あの、木の実とかきのこを持ってきてくれていた兄弟ね」
花が顔をあげて孟徳を見たのを確認して、孟徳はつづけた。「無事に逃がさせたよ。表向きは極刑だけど」
花は小さく微笑むとうなずいた。「ありがとうございます」
「これを言って謝って仲直りをしようと思ってたんだ」
花の笑顔に励まされ、孟徳が手を伸ばすと花がそれとつないでくれた。前より細くなった指が孟徳の指に絡まる。
久しぶりに触れた花の素肌に、孟徳は背中がゾクリとするのを感じる。彼女の全身が愛しくて大事で孟徳はどうすればいいのか途方に暮れた。抱きしめたいがさすがにまだ早いような気もする。さっき応接室で抱きしめた時に痛いと言っていたし……
「まだ体は痛いの?」
花は顔を横に振った。「もうほとんど大丈夫です」
「でもさっき……」孟徳が言いかけると、花は気づいたようで笑った。「あれは普通に強すぎて痛くて」
ああそうか、ごめんと言いながら、孟徳は自分の顔が赤くなっているのを感じた。10代に戻ったみたいだ。いや10代だってここまでどぎまぎすることはなかったな。
「えーっと……強くしすぎないから……きみをもう一度抱きしめてもいい?」
なんだこの不器用な言い方は。抱きしめたくて焦って不格好で余裕がなくて。こういうのは女性は嫌いなはず……と自分自身を忌々しく思っていると花が「どうぞ」と自分の体を少しよけて孟徳の隙間を作ってくれた。次はもう少し余裕綽々で…と思っていたのは一瞬でとび、孟徳はいそいそとクッションの山によりかかり、花を自分によりかからせる。
「ほらこうすると馬車の揺れが弱くなるだろ?」
言い訳がましい自分の言い方に孟徳は再び自己嫌悪に陥ちいりながらも、無事花を胸に抱くことができた。
ほー…と腹の奥からため息がでる。全身の力が抜けて……これは安心したのだ。
大事な珠が再び自分の掌中に帰ってきてくれた。花も頬をそめながらも嬉しそうだ。孟徳はどうしても緩んでしまう口元を手で隠しながら、照れ隠しに窓の外を眺めた。
こんな幸せを味わえるとは思ってなかったな。
暗い予感に全身を覆われて真っ暗な中で必死に川で花の切れ端を探していたころ。
もう無理だとあきらめながらもあきらめず眠れない夜を過ごしていたころ。
こんな時がくるとは想像もしていなかった。
孟徳は胸の中の花を見下ろし、ようやく全身の緊張がほどけてきたのを感じた。
懐かしい孟徳の香の匂いに包まれて花は少しうとうとしたらしい。目を開けたら陽はもう長くなっていた。馬車は相変わらずガタガタと進み揺れが激しくなっているところを見ると山道に入っているようだ。ちらりと孟徳を見上げると孟徳は微笑んで花を抱く腕にギュッと力を込めてくれた。
言おうかどうかずっと迷っていたが、言葉が自然に口からこぼれ出た。
「孟徳さん、私赤ちゃんができてたんです」
そうだ、孟徳の子どもでもあるのだから伝えておかなきゃ。
孟徳の反応は面白かった。しばらく沈黙の後、「えっ!!!」と大きな声を出し花から飛びのいたのだ。「子ども!?え???君が!?」
そうだと花が言う前に孟徳は立ち上がる。「馬車を止めないと。体に良くない。どうしてもっと早く…」といいながら窓から顔を出そうとする孟徳の服を花は焦って引っ張った。
「あの、違うんです。その……川で流された後にダメになっちゃって」
目を見開いたまま固まっている孟徳に、花は「ごめんなさい」と小さく誤った。孟徳は花を抱きしめると、再びクッションの山にもたれかかる。
「そうか……そうか、ごめんねそんな時に一人にして」
「私もわかってなくて。わかってたら……」
もっと違う道があっただろうかと花と孟徳はそれぞれ考えていた。あの事件の前にわかっていたら。とりあえず花をこの遠征には連れてこなかっただろう。しかし都においてきたらおそらくまた謀略に巻き込まれ親子もろとも命が危なかったに違いない。元譲だけを遠征に向かわせることもできたかもしれないが、それは結果論だ。あの時は牧が玄徳と組み反逆の軍を挙げる可能性をたたきに行ったのだから、孟徳が出陣したということが伝わらなければ実際に反乱を起こしていた可能性が高い。
花も同じことを考えていた。あの時の花の立場ではあの方法しかなかったのだ。悲しい結果だけど必然だった。あの女教師の件もあの兄弟の件も、花と孟徳の子どものことも。
次はそうならないように考えなきゃ。
花は孟徳に抱きしめられながら、だんだんと暮れていく山々を眺めていた。
孟徳さんのそばにいるためには、どうすればいいか正解はわからないけど……でも、今の私の答えは……
「孟徳さん、お願いがあるんですけど……」
「何?何でも聞くよ」
花は考えながら続ける。「あの許都のお城の外側のところで、たくさん物売りがいるところありますよね。あそこのそばに小さな兵舎があったと思うんです。見張りの人用の。もう使ってない昔のだって」
「うん?あったかな」
「それが貸してもらえないですか?あと文若さんにも……」
カンカンと金槌の音が秋の澄んだ青空にひびく。材木を担いだ大工が行きかい、ざわざわと活気のある建築現場を、孟徳は楼の2階から眺めていた。
工事は順調に進んでおり、来月にも完成すると現場監督から報告を受けている。花に伝えれば喜ぶだろう。
「だいぶ進んだな。寒くなる前には完成しそうじゃないか」
後ろから声が聞こえ、元譲のごつい手が手すりを握る。
「ずいぶん大規模になったな」
元譲は太陽がまぶしいのか手を目の上にかざして、『花のおねだり』を眺めた。
眼下で忙しく建てられているのは、いわゆる学校だった。
学校は当然これまでもあったが、それは裕福な貴族の子弟専門のものだ。これは平民の、主に戦争孤児たちをメインにした学校だった。希望者には朝昼夜と食事がでるし、きちんとした部屋ではなく雑魚寝だが、夜眠るところもある。
春に、小さな古い兵舎で一教室で花が細々と始めたこの事業が、あれよあれよと人をあつめ今は教室を4つ増築するにまでなったのだ。
戦争孤児はもちろん、町方の貧しい家庭の子どもも来るようになっている。
「文若がぶつくさいってたぞ。紹介する人材も増えて授業の内容も多岐にわたってきてるって」
元譲が言うと、孟徳は「あーそうだなー」と気のない返事をした。
教師は全部で8人。この城で働いている文官のなかで、若く気のいいものを選んで派遣するよう孟徳が文若に指示をしたのだ。これも『花のおねだり』だった。
「まったくかわったお妃さまだよ、花ちゃんは……。楽しいみたいだからまあいいけど。いったい何が楽しいんだろうね」
欄干に肘をつきながら、威勢よく声を出し合い屋根を作っている大工たちを眺めて孟徳はぼやいた。
これのせいで花は日中ほとんどこっちにきており、執務の合間に孟徳が花に会いに行くことができなくなったのだ。そのかわり今は同じ部屋で同じ寝台に眠ることを了解してくれているが。
右側の元譲から視線を感じて、孟徳は目だけで横を見る。「なんだ?」
「いや、聞いていないのか?」
「何を」
「あいつから。なぜこんなことをするのか」
孟徳は目を少し開いて元譲を見る。「なんだ、お前何か聞いてるのか?」
許せん。花ちゃんなんで俺に言わずに元譲に?むっとして欄干に持たれて元譲に向き合う。
「早く言え」
「いつだったか……。まだ一番最初の教室の時ころだな。様子を見に行って、あいつに聞いたんだ。何のためにこんなことをするのかと」
そう聞かれた花は少し考えてから答えた。
『自分のためです』
『おまえのため?別にこんなことしなくても食うにも寝るにも困らんだろお前は』
まったくわからないと呆れた顔の元譲に、花はつづけた。
『そんなことないです。食べたり寝たりはそれはできるけど……ちゃんと孟徳さんの傍にいられるようになりたいんです』
『?』
わからないと首をかしげている元譲を見て、花はまたにっこりと笑った。
『侵略したり人を殺したり殺されそうになるのが普通の孟徳さんの傍にいるために、私はどうすればいいのかをずっと考えてて』
花はいったん言葉を止めると、子どもたちが床に座って先生の話をきいている一部屋だけの教室を見た。
『だから、孟徳さんが殺すぶんだけ私は人を産もうって思ったんです』
「自分一人で産むには限りがあるから、それなら育てようと思ったと。建築や算術や詩や……いろんな分野で才能あるやつをたくさん育てれば、家柄や血筋ではなく能力で登用しようとしているお前の政策にもあうだろうし、それが戦争孤児ならさらにいいだろうと」
「……」
驚いた顔をしている孟徳から視線を外し、元譲は建築中の学舎を見る。
「それがあいつにとってお前のそばに居られる理由なんだと」
孟徳は黙り込んだ。
元譲はしばらくそこにいて、「じゃあ俺は仕事に戻る」と言い、孟徳をおいたまま去る。
まだぼんやりと建築中の学舎をながめている孟徳の横顔を横目でちらりと見て、元譲は知らず知らず緩んでくる自分の口元を手で押さえた。
先ほど花の言葉を伝えた時、孟徳の中で何かがほどけた感じがしたのだ。完全にほどけたわけではないが、確かにずっときりきりと張りつめていたものがかすかに揺れて動いた。
あの呪いが解けかかってるのかもしれん
元譲はゆっくりと足を進める。
完全に解けることはないだろう。また固く結ばれてしまうこともあるかもしれない。
それでも花が傍にいれば。
きっといつか、呪いは必ず解ける。
元譲の微笑みは消えなかった。
【終わり】
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